昭和49年12月23日 朝の御理解
御神訓 一、「食物はみな人の命の為に天地の神の造り与えたまうものぞ。」
一つ食物はみな人の命の為に天地の神の創り与えたもうのだと。色んな宗教がありますけれども、此の位素晴らしいみ教えというか、所謂段が違うなと言う様な物を感じるのですね。信心しておれば、あれは食べられないとか、あれは飲まれないとか。もう見解が違うんです全然ね。例えばキリスト教だとか、仏教だってそうです。例えばなら生き物を食、殺して食べると言う様な、言うなら魚とか肉とかを食べてはならないという難しい戒律がある。お酒は飲んでは行けないとキリスト教の信者は言う。
けれどもそれがなら、天地の親神様が人間の命の為に造り与えたもうのぞ。第一その命その物が天地の親神様が作って下さったのです。だからその命その物も、天地金乃神様が造って下さったならば、その命を生き永らえる元である食物の神様が当然造って下さる。その当然造って下さっている物をそれはいけない、是はいけないと言う様な考え方ではなくて、人の命の為に、天地の神が全てを造り与えて下さったという見解です。
私は昨日、桜井先生の所のお母さんの五十日祭を奉祭させて頂きました。所謂合碑祭いうなら、親戚の方達が二十名程、そのお祭り頂き終わってから、御直会を頂きましたが、昨日は珍しくシナ料理でした。まぁ沢山出る、出る一杯出る。「あら、どうした料の良い事じゃろうか」と私は思って。もう見ただけで腹いっぱいになる様なその上、好きな物ですから腹一杯頂いて。
話を聞いてのところが二十人の方達が見えておるのに、桜井先生も頼んでいる、奥さんも頼んでいる。それけん二人、二重に来ているんです。多いはず。どれだけ食べてもまぁテーブルには、手を付けんという料理が、一杯あると言った様な状態でです。そんな訳でしたから、そのもう皆んな頂いたんですけど。こちらの、体の調子もあんまり良くなかったでしょうか。
頂き過ぎて腹がくじくじしだした。人間ちゃね卑しい者です。自分の好きな物が目の前に一杯あると、もうそれこそ我を忘れて食べてしまう。そう言う所に私は命の為に、頂くと言う事を忘れておる。好きな物だから食べる。美味しいから食べる。是は矢張り体をそこねる。大酒大食は絶食の元と言われる様に、もうそれが絶食の元とにも成りかねない、問題は命の為に頂くんです、ね。
だから命この命も神様が造って下さったもの。その食物もこの命の為に神様が造って下さった物。そこにはです肉もよかろう魚もよかろう。お野菜も勿論頂く命の為に造って下さる。お酒もよかろう、ね。あれが飲んじゃならん、是が食べてはならんのではないけれども、ね。それは何処迄も美味しいから頂くとかね、好きだから食べると言う様な事になると、所謂この命の為にと言う所の観念というか物が無く成って来る。
そこに所謂有り難く頂く心を忘れなと仰る。有り難く頂く心を忘れてしまう。是はまぁ不思議な事ですけれども。もう今日は何もないですよ。もう今日は、お茶粥さんで漬物と言っている時に、「何か作らなじゃか、何かなかったか」とは思わないですけれどもね。もうそれこそ、もう本当に命の為に私は頂けれる。私共が此のお茶粥さんで命を継ながせて頂いた時代の事を思うたら、それがもう有り難い。
そのお漬物だけで、茶粥さんらの美味しい事。たまには有り難い事。もう有り難いと美味しいが一緒にねあるのです。ですから食べ過ぎる事もなからなければ命を奪いする為に食べる様な事もない。所があんまりに沢山あったり、それが自分の好きな物であったり、ね、美味しい物であると、いうなら其処でやりそこなう。私はお道の信心は言うなら三度三度の食事。まぁ私共は二度二度ですが。もう此処は昔から私が二食でしたから、全部の皆んなが二食です。
ですけれどもその二食の例えば食物の頂き方だけででも信心が出来ると言う事を思います。もう本気でなら拝んで頂く、本気で頂いた後の神様へのお礼がですね。それが本当に害するのではない。血肉になってまた働く元がそこに養われるというおかげを頂く為に、本気で私は食物を食べる、頂くと言う事だけにでも、焦点を本気でおいたら、金光様の御信心はおかげを頂くね。
それを頂くのは、もう当たり前の様に、おざなりな、また拍手を打って頂いているけれどもそういう真剣な頂き方が出来ていない事に、改めて気付かせて頂きます。夕べ、遅くもう遅く十一時頃だったでしょうか。テレビを付けましたら、なんかえらい良さそうな映画があってました。それが偉大なる人の生涯かなんかという。キリスト教、キリストの映画でした。それが丁度キリストが奇跡を現す。丁度そこに裁判の証人に来ているのが、盲人のおじいさんが開眼した、目が見える様になった。
だからそう言う事があろうはずがない。そこに奇術を使う、人を惑わすのだというて、そのおじいさんが、証言台に出され、引き出されている所を見せて頂いたんです。是はもう本当に合楽の場合なんかでも、もしあの時代だったら、私はもう本当に張り付けになる所じゃろうと思うのです。合楽では目が見えない人が見えるごつなったりね、ちんばが立ったり、無い命の人が助かっているんですもの事実。癌だったと言う様な何時の間に消えて無くなると言う様な奇跡が現れておる。
昨日の朝のお届だけでもそうです、ね。八十になるお爺さんがもう底脾でも目が見えない寸前であった。それで、それでも元気なお爺さんですから、手術をすると言う。二回程お願いに見えた。勿論親戚の方達はづっと参っておる。それが私が、手術をするとはそげんもう急がんでいいですよと、ね。もう暫く神様にお願いをさせて頂いてというて、まだ十四、五日しかならんでしょう。昨日はお礼に出て来たのは、おかげで見えるごつなったけん。もう手術はせんで良いというお届じゃった。
牛の皮から参ってきてます。もう八十にもなる訳です。昨日はある教会の御信者さんがお参りをして来なさった。息子さんが白血病である。そこの教会の先生も大変お力を頂いていますから、そのおかげで胃腸が治った。それこそ医者がたまがる様なならおかげを頂いて、今の医学ではどうにも出来ないだそうです、白血病はね。それが治ったんですから。まぁびっくり。所がですまた元に返ってしまった、ね。それで医者も今度はもう駄目だと言うし、それからお取次ぎを成される先生も。
「もう今度はとてもそげん」というごたる様な風だったから、そんなら一つ合楽の親先生にお取次ぎを願おうと言うて参って来た。昨日は親戚の方達がそこで、三人早くお届をしようと思って、立ちあがっておられた三人の方がそうです。あのあちらの息子さんです。医者がたまがった事は、体質改善が出来とるね。もう白血病はもうどうにも出来ないのですから、体質改善が出来ると、ならまた血が例えば増えると言った様なおかげになって来る訳なんですね。
私は思わせて頂くのにね、今日は食物は命の為にと言う事なのですけれども、ならその頂くその命その物も今日はね、神様の命であり、神様の造られた物であるという自覚に立つ事です。その証拠にはですんならこの御体を神様がです、ね、もう医者も助からん現代の医学では助からんと言う物がです、助かるというのはですね。神様が体質を改善して下さったからなのです。それは何故かと。神様が造んなさったじゃから、神様が修繕しきりなされんはずはないという理が成り立ちます。
それをです、私共がね神様が造って下さった命だという、私は思い込みがないとです。「そりゃ、親先生はあげん言いなさるばってん、こげなん病気はとても治るめ、と自分で治らんと決めとる、ね。是は例えばやっぱ、医者によらなければ、医学によらなければ、薬を飲まなければと、もう言うならば、神様はみくび、見くびる様な事になっておる。私は、奇跡が現れるというのはですね、言うならば、その天地の親神様がこの目もね、鼻も口も耳も一切聞こえる、見える、味わえれる。
そういう言わば、感覚の事に至るまで、神様のおかげによるものだと言う事だ。そこのところをね、私は信念させて頂くところから、勿論食物もまた命の為に頂くと言うところに頂いた命。また頂いた食物とが一つになって、おかげになって来るんだと。それを私共が、頂いた命である事は解っておっても頂いた食物と言う事を忘れて、暴飲暴食をして、腹が痛いの、胃が悪うなったのと言う様なことになって来る。本当に迂闊な事。食物の頂き方一つだけででもです、私は信心になれるのがお道の信心だ。
本気で私は、食物を命の為に頂かせて貰うおかげ。本当にねまぁ食事に出ておる所の食物のその一つ一つがです、天地の親神様のどれ程の手が掛かっておる事か。どれ程のお恵みが掛かっている事か。それを頂いておる命が頂く。頂いておるものと頂いている物とが合体する。そこに本当の食物の頂き方と言う物があるんだと、ね。なぜ奇跡が起こるかと。それはね、神様から頂いた命だから、死人もまた甦る程しの働きをして下さる事が出来る。そこを信ずる所から、そういう奇跡もまた起こるんだと。
今日は其処ん所が皆さん分かって頂きたいね。この体は神様が造って下さったんだと。その思い込みが出来て願う所からです、神様からいうならば、ね、完璧な修繕をして貰える事が出来る。自転車屋さんが、自転車を組み立てる事が出来るから、自転車の修繕が出来なさる様なもんです、ね。組み立てる事が出来る、作る事が出来る自転車屋さんですから、修繕位はわけないでしょう、ね。
此の命この体を作って下さった神様ですからね、神様が本当の心。本気でなら修繕させてやろうかと云う気になさったらです、ね、いうならば体質改善を神様がして下さる。もう血は出来ない、血が段々減って行くという人があるね。体質改善ができた所から言わば血が段々増えて来る平常のおかげに戻る事の出来るという奇跡もまたそこにある訳です。だから言うならばね、「信心してみかげのあるを不思議とは言うまじきものぞ」信心してみかげの無い時ぞ、不思議なる事ぞと仰る意味が良く解る。
それを私共は「はぁ不思議だ、奇跡だ」とこぉ言うけれども奇跡じゃない。その神様が作って下さった命だ。または体だと。もう命が切れたというてもまた与えて下さる気になりゃ蘇生もすると言う事にもなるし、ね。動かない手が動かない足が見えない目が見える様になったり、動く様になったりと言う事もです、それは信心してみがげを受けると言う事はですね、もう当然の事です当たり前の事だと。奇跡ではないんだとね。それをねキリストの時代にはそう言う事が解っていなかったから。
奇跡を表すと言う事だけで、世を惑わすというて、張り付けになる様な結果になったのです。私はそれを見ながら、何かぞうっとする様な物を感じました。あまりその演技が素晴らしかったからでもありますけれども、ね。本当に今合楽では徳に、此処合楽示現活動と言う様な活動が起こってから此の方と云う物は本当に奇跡と言わなければならない程しのおかげをが、現れているね。だからそ此の所をです、神様がこの命を作って下さったのは神様に願うからそのおかげが受けられるんだと、ね。
子供は親両親のに至るから出来たと。けれども何年立ったちゃ妊娠しない人がある。先日から、文男先生のお得意さんで、もう長年結婚して子供が出来ない人があった。それで合楽でこうやっておかげを頂こうとしたら、どうでんこうでんお願いしてくれと、こぉ言う。だからお願いをさせて頂いた。そしたらこの前の月次祭にお神酒どん一本持ってから文男先生がお礼に出て来ました。この頃お願いしましたが、その月から月の物が止まって妊娠のおかげを頂いたね。
もう両親が頑張ったからと言う事では出来んのです。神様のおかげを頂かなければ出来んのです。そしたらそれば聞きよった横の隣の人も、毎日私ももうなら何年になるばってん子供が出来んけん、いっちょお願いしてくれと言われた、ついでに頼まれたと言う、言うんです、ね。けれどもそれがそう、そこに御神意というもの、願い何かがそこに一つになる時です。そういう奇跡が起こる訳ですけれども、ね。
まぁそう言う事から言うても、生命と言う物は神様がこの肉体と言う物も命も神様が造り与えて下さっておるのである。勿論食物もその命の為に造り与えて下さった物であるから、ね、生臭い物は食べられん。コーヒーの物は飲まれないと云うような事ではない。言わば、そのものずばりにです教えて貰える。もうそれこそあらゆる色んな宗教のそれこそ段の違う、段が違う物をこの御教えからでも感ずる事が出来るのですね。
どうぞ。